【上小田中】「泉澤寺」の歴史と見どころ 500年の歴史を伝える浄土宗寺院

歴史は建物と表裏一体の関係です。中原区にも、地元の歴史を今に伝える歴史的なお寺がある事をご存じでしょうか。
そこで、今回は川崎市中原区上小田中にある浄土宗寺院「泉澤寺(せんたくじ)」について紹介します。日露戦役記念碑などが建てられており、歴史好きには堪らないスポットです!

500年の歴史を伝える浄土宗寺院「泉澤寺」の歩んだ歴史
「泉澤寺」は戦国時代に創設された浄土宗のお寺で、正式名称は「宝林山運昌院泉澤寺」と言います。
世田谷領主吉良頼高が1491年(延徳3年)に烏山で建造しました。
しかし、諸堂が焼失した事で、1550年(天文19年)に吉良頼高の菩提寺として、吉良頼康が現在の上小田中へと移したようです。

上小田中では門前町を整備して門前市を開き、町の繁栄に貢献したと言われています。
江戸時代に入ってからも重宝され、中原街道が近くを通っていることも影響して政治・交通の要として重要な役割を果たしました。

現本堂は1778年(安永7年)に再興されたもので、様々な仏像や彫刻、日露戦役記念碑があるなど地域の歴史を伝える重要な役割を持っています。

実はかなり貴重な文化財の宝庫
歴史ある「泉澤寺」にはこれまで受け継がれてきた遺物もたくさんあります。
そこで、ここでは“所有指定文化財”に指定されている4つの遺物を紹介します。
- 泉澤寺文書
- 阿弥陀如来立像
- 四天立像
- 泉澤寺本像
最初の「泉澤寺文書」は戦国~江戸時代の間に作成された文書のまとめです。寺領の寄進や百姓逃亡、年貢徴収など様々な記録が残されています。

次の「阿弥陀如来立像」は南北朝時代に作られたもので、高さ31.7cmと小さな物となっています。本体の素材は銅ですが、外側を鍍金して仕上げた仏像で県内でも類を見ない貴重な銅像です。

3つ目の「四点立像」は製造年が判明しており、1710年(宝永7年)に作られた木造の仏像です。計4点の仏像で構成されており、それぞれ広目天・多聞天・梵天・帝釈天という神がモデルです。
詳しくはこちら:川崎市教育委員会:木造 四天立像 (city.kawasaki.jp)
最後の「泉澤寺本堂」は上記のように1778年(安永7年)に建てられたものです。堂内は天井に彩色画や細部に鳳凰や植物図様が彫られているなど、近世浄土宗本堂の県内における代表作の1つとなっています。

「泉澤寺」を建てた吉良氏、実は有名な一族だった?!
ここまで「泉澤寺」について解説してきましたが、寺を建てた一族・吉良氏も同時に調べてみると、こちらも中々の歴史と栄光を誇っていましたので最後は吉良氏について紹介します。
過去に遡ってみると、吉良氏は足利家の一門で、足利第3代将軍・足利義氏の息子が三河国碧海郡吉良荘を本拠地にしたことから“吉良”という性を名乗るようになりました。
世田谷に本拠地を定めた後は、関東管領の親戚という高貴な身分を保ったまま戦国時代には今川家や織田家と争いましたが、1570年頃には徳川家の軍門に降りました。
江戸時代以降も高い身分を保ったまま過ごしていましたが、赤穂事件の影響で旗本という身分に落ちたまま明治維新まで武家として存続しました。
現在の子孫ははっきりと分かっていませんが、分家として子孫が今でも続いているそうです。
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