【武蔵小杉】遡る事250年前?!駅前の記念碑「八百八橋碑」の歴史を解説

皆さんは、JR武蔵小杉駅前の歩道橋周辺が石畳になっている事をご存じですか?
そこには「八百八橋碑(はっぴゃくやばしひ)」という石碑があると共に、石碑近くの石畳のデザインが異なっています。

何故ここの石畳だけ違うのか。そして「八百八橋碑」とはなんの碑なのか。
今回は武蔵小杉駅近くにある石碑「八百八橋碑」について紹介します。
JR武蔵小杉駅前の記念碑「八百八橋碑」の由来・歴史は?
今回紹介する「八百八橋碑」。名前の由来はどこかの地名や人名から取ってきたのではありません。
この橋の名の由来は・・・架けられた橋の数からです!
この数が正確な値なのかどうかは分かりませんが、言い伝えによると808個作ったと伝わっているので「八百八橋」となっています。
さて、この橋の歴史は今から約250年前まで遡ります。この頃の小杉周辺では、田畑の為に小さな水路を沢山設置していました。
その水路には、土や木で作った簡雍な橋が作られていたのですが、雨のたびに増水してその橋は破壊されていました。そこで、1人の人物が私財を投じて武蔵小杉に沢山の橋を架けたのです。
そしてその功績を讃えるため、1964年(昭和34年)に武蔵小杉駅前に誕生した記念碑が今の「八百八橋碑」。

その後、2018年に「八百八橋」は「市地域有形文化遺産」に登録されています。
橋を“私財”で架けた小杉の偉人・野村文左衛門
上で説明したように、「八百八橋」は全て私財を投じて作られた橋です。
その私財を投じた人物こそ野村文左衛門という人物ですが、ご存じない方が殆どだと思います。調べても肖像画のような絵は残されておらず、記録も「八百八橋」の建設のみと、他に活動していた記録は残されていませんでした。
しかし、文左衛門が凄いのは、やはり橋を架けた数!
名前通り808個架けたとすると、それだけの石材や移動手段を下支えする、とてつもない財力が必要でした。
文左衛門は、どのように橋を架ける為の財力を蓄えていたのでしょうか?
彼は、丸子で干鰯(ほしか)業を営んでいました。
干鰯の他にも、野村家は浴場やタバコ屋も営んでおり、文左衛門はかなりの財産がありました。
当時は農業が支流でしたから、民のほとんどが農民であった江戸時代において、農家以外の職に着いていた人は平均よりも裕福だったのです。
そんな家で生まれ育ち、家業も継いだ文左衛門は、雨による橋の破壊と復旧の繰り返しという現状に終止符を打つべく、1000の橋を架けることを決意しました。
そして、1772年(寛政3年)に亡くなるまで文左衛門は沢山の橋を小杉に架けたのです。
昔の逸話を後世に ―地元で受け継ぎたい大切な歴史
この「八百八橋」、武蔵小杉駅前に設置されたもの以外にも、中原区役所など色々な場所に展示されています。
上小田中の神明神社では、石を用いてかつての「八百八橋」を再現している他、ベンチなどを整備して“庭園風”に仕上げたり、解説板を設置して八百八橋の周知に努めているなど、様々です。
地域を語る上で欠かせない記念碑。貴方の家の近くにもひっそりと建っているのかも知れません。