本日、2021年4月15日で「川崎大空襲」から76年となります。
東京大空襲がどうしても有名なので、世間的に注目される事はあまりありませんが、地元ではしっかりと当時の記憶が伝えられています。
川崎大空襲ってなに?
川崎市は太平洋戦争時、軍需産業の一大拠点であったのは、川崎市の成り立ちを考えてみると想像に難くない事だと思います。
川崎市は、戦前から重化学工業を中心として産業が発展しており、軍需生産において非常に重要な役割を果たしていました。
臨海部に大規模工場が多くあり、また多摩川沿いを走る南武線沿線には、戦時経済の拡大に伴ってその当時の最新の設備を持つ工場が次々に造られていったという経緯があります。
その為、川崎市は米軍から最重点の攻撃目標の一つとされており、1944年以降空襲が本格化すると、度々大きな被害を受けていた地域でした。
1945年4月15日4月15日に最大規模の空襲が行われます。
200機余りのB29 による大規模爆撃を受け、特に川崎市中心部と南武線沿いの工場が集中している地域は、壊滅的な被害を受けました。
全半壊家屋33,361戸、全半壊工場287、罹災者は10万人以上というこの爆撃は川崎大空襲と名付けられ、語り継がれることとなります。
川崎大空襲を後世に伝える取り組み
毎年この時期になると、中原区木月住吉町にある川崎市平和館では、川崎大空襲の「記録展」を開催しています。
今年は、戦時下の市民生活にスポットを当てており、「草の根」から戦争に動員された市民の記録や、政府の戦争へ扇動記録を紹介しているようです。
地元の歴史について、しっかりと知り、そして後世に残して行くことは、文化面だけでなく街づくりや産業においても非常に重要なことだと感じます。
その為にも、地元愛や地域の繋がりといったものを中原区ではもっと広げていきたいですね。
そして川崎市平和館は、平和公園という大きな公園にも隣接しているので、休日に子連れで訪れやすいスポットでもあります。
ぜひ、一度訪れてみてはいかがでしょうか?
参考:川崎市における戦災の状況(神奈川県)
参考:川崎大空襲から76年 「要は精神だ」服は簡素に、賃金は債券に・・・ 生活に潜んだプロパガンダ 市平和館で記録展